2012年5月15日火曜日

さくらんぼテレビ


小説家になろう講座(11月講師・村山由佳)

『意図的に当事者になる覚悟』
 


 11月の講師は、直木賞作家の村山由佳先生(プロフィールはページ下に記載)。

 村山さんが山形の講師を務めるのははじめてのこと。今回、村山さんが講師ということで、講座の窓口となっているさくらんぼテレビに、ファンからの問い合わせが多数寄せられた。村山さんがいかに人気のある作家であるかの証左だろう。当日の講座には、年間受講生のほかに新規の受講生が多くつめかけた。

 作家・村山由佳氏

   ゲストは、「小説すばる」編集部の伊礼春菜さんと文藝春秋第一出版局の大嶋由美子さん。伊礼さんは、天野純希さんの『桃山ビート・トライブ』(第20回小説すばる新人賞受賞作)や古川日出男さんの『聖家族』などを手がけ、大嶋さんは、三浦しをんさんの直木賞受賞作『まほろ駅前多田便利軒』、重松清さんの最新刊『サンタ・エクスプレス』(季節風シリーズ四部作冬編)などを担当されている。

 大嶋氏 ・ 伊礼氏

  村山さんは、朝、起きて会場に来るまのでの間に、エッセイを3本仕上げてきたとのこと。

「子供のときから夏休みの宿題を最後の日にするような子供でした。たぶん締め切りがなかったら小説をうまく書けないと思う。でも、もしも締め切りがなくなり、「小説を書かなくていい」と言われたらどうなんだろう、と思うと不安でもある。きっとものすごく大きな欠落を抱えて暮らすことになるんじゃないかな。自分自身、小説を欲していると思う。
 たぶん、ここにいる皆さんも大なり小なり、そのような思いを抱えて小説を書いていると思います。私自身、今日のテキストを自分なりに読み解かせていただき、それをもとに話しますが、みなさんはそれを聞いておそらく、私という物書きの頭のなかを審査したり、評価したりなさるのだと思います。批評とは、もともとそういう性質のもの。だから、私も腹を据えてかからなければいけないと思っています。
 厳しいことを言うことがあるかもしれませんが、それは、小説やエッセイを書いていこうというみなさんと同じ志のもと、励んでいく者のひとつの意見だと思って聞いていただければと思っています」

  受講生ひとりひとりの目をしっかりと見据えながら話す村山さん。講座の世話役の池上氏の進行のもと、講座がはじまった。 


  今月のテキストは4作品。
『遠い花火』『太った半月』(冬月池子/原稿用紙換算6枚ずつ。※ともにエッセイ)
『台風一過』(林 香里作/原稿用紙換算49枚)
『エレベータ。』(橋本美香作/原稿用紙換算20枚)

 ※以下、今回のルポでは、当日会場で寄せられた生徒の感想を省略します。ご諒承ください。 


■『太った半月』(冬月池子作)

・著者の概要より――

 私が、嗜好も生活習慣もまるきり違う姑との同居を始めて、数年がたっている。姑が嫌うので、子どもたちも大好きな焼肉は、姑がいないときにしか食べられない。姑は長年の習慣をやめられず、植木屋に勝手に剪定をたのみ、高額の請求書をのんでいる。そんな日々を重ねているうちに家の中で緊張が高まっていく。
 姑が外泊した夜、敷地の四隅に盛り塩をして回った。張り詰めた家の空気が、急に緩んだ気がした。こんな、理不尽なことをしてでも、わずかながら自分を取り戻し、同居という歳月の月は満ちていく。


▼ゲストの講評

○伊礼氏
 
「ある種の不気味さ、あるいはいじわるさが魅力的で面白かった。
 家族という人間関係があり、それを入れ込む家がある。その家が盛り塩のあたりから生きている感じがした。生き物としての家の皮膚をはがしたその下にある、ざらっとした生々しい何かに触れたような感じがした。
 ただ、『私の家』と『おばあさんの家』、『板塀』や『駐車場』など、作品に出てくる場所の位置関係が思い浮かべづらかった。しかし、それを丁寧に説明すると味わい深さがなくなるので、客観的に見たときに、読み手が位置関係をなんとなく浮かべられるぐらいの形で書いたほうがいいように思った。」

 ○大嶋氏
 「読んでいて引っかかった部分があったのだが、この作品が連作であることを知り、納得した。
 音の選び方やリズムなど、気持ちよく読めた。読んでいて思いだしたのはエッセイストの佐野洋子さん。佐野さんがお書きになっているエッセイは、日常との距離のとり方が飄々としているんだけれども、そこには世界と自分との間にあるものをとても厳しく見ているものがある。面白く読んでいるけれども、一筋縄ではいかない感じがある。
 冬月さんのエッセイは、突き詰めていけば、そちらのほうが合うのではないかと思う。描写の足し算引き算などとても勉強になるので、お読みになっていなかったら、佐野さんの作品を読むことをお勧めする。」

▼池上氏の講評

 「自分と世界とを非常に厳しく見据えていながらも、ユーモラスに描いている。テンポがよくて面白い。これは"ハードボイルド"精神にとんでいるエッセイなんです。淡々と事実だけを書いていって、余分なものを説明せずに、人生のある真実を読者につきつける。私生活における余分なもの、いやなものを、優しく排除していこうとする部分がテンポよく語られていて、実に面白く読めた。とくに方言の使用が、作品にとっていい手触りを出していると思う。」

▼村山氏の講評 


タイプ2の電気絶縁は何ですか

 「読みはじめたときにエッセイなのか小説なのか悩んだ。しかし、先ほど作者の方から、この話は、日記として書かれていた、と聞いて納得した。自分もネットで日記を書いていて、そのなかからエッセイの題材を拾うことがあるが、そのときに注意しなければいけないのは、「いま、これをはじめて読むであろう読者が、どの情報を知っていて、どの情報を知らないのか。どの情報を、どの順番で明かしていったらいいのか」ということ。自分がはじめての読者になったような感覚で、すごく客観的に俯瞰して書いていかなければいけないと思う。
 日記とエッセイの違いという問題点が、この作品にでていると思う。
 作品のなかに妹の家に泊まりに行く「ばあさん」という人物が出てくるが、ここには「ばあさん」の年齢などが書かれていない。ここで例えば「70歳になる妹の家に、ばあさんが泊まりに行く」と書かれていれば、ばあさんの年齢や情景が浮かんできて、説明ではなく用意周到な描写にまぎれこませる形で、読者に早々と情報を与えられると思う。
 読者が、情報を与えられたことにすら気づかないくらい、さりげなく情報を与えていくことを計算して書かなければいけない。それが、日記をエッセイに書くときに必要なことであり、いちからエッセイを書くときにも必要なことである。
 あと、これも日記からエッセイに転じさせるときの問題だが、「~と言ってた」「~知ってた」という言葉遣いは、エッセイという額縁を嵌めるのであれば、きちんと「~と言っていた」「~知っていた」と口語的表現をあらためたほうがいいと思う。
 先ほど伊礼さんがおっしゃったが、この作品にある意地の悪い視点というものは、物書きにとって必要不可欠なもの。先ほど大嶋さんがおっしゃったが、この作者は佐野洋子さんのように、意地の悪い視点を出していくほうが、キャラが立っていてはまっているように思う。ものごとを斜から観る視点をもっと伸ばしていただきたい。」

 

会  場
 


■『遠い花火』(冬月池子作)

・著者の概要より――  

 盆の花火から半月余りで、父の命日がくる。21年前、「わたし」が初めてお産をした5日後に、父は逝った。同じ病院の、産科と外科に入院していた「わたし」と父。「わたし」は父の臨終にも立会わせてもらえず、父の葬儀の間も病院にいた。 
 母親になりたての自分と、ててなしごになりたての自分。二つの新しい自分に戸惑う「わたし」は最期に父と見た、遠くに上がる盆の花火を思い出す。末期がんの痛みの中で、父の目には花火は映っていなかったろう。
 今年、別れて暮らしている夫が見上げた花火。「わたし」は犬の目に映った花火を見つめていた。

 
▼ゲストの講評

○伊礼氏
 「
こちらのエッセイは先ほどのエッセイ『太った半月』に比べると、作者の個人体験記であり、まだ客観性が足りないように思う。書かれているものは悲しいし、辛いことだったとは思うが、エッセイとしてまとめるときには、その先にいかなければいけないと思う。父親の死を描きつつも、その先に生きるもの、死に行くものを描いていくと、もっと普遍性が出るように思う。」

 ○大嶋氏
 「
個人的には『太った半月』のほうが好きである。物語で大事なのは、そこに起こった事柄の軽重ではないんです。『遠い花火』に書かれているものはとても重くて、ご本人にとって深い想いがあるのだと思う。だからこそ小説のテーマに成りうるのだと思うが、そこを引き剥がして書くまでのステップが、充分に成されていないように思う。
 先ほど額縁という話が出たが、(話を枠にはめこむ)額縁はコラムにはいいかもしれないが、エッセイの微妙な虚構や小説の場合は難しいと思う。額縁を先に用意してしまうと、出来上がってしまった部分で、なにが書かれているのか、読ませるための何をどうするのか、という部分が置き去りになってしまうように思う。
  この作品も、もう一段虚構を入れて、男性が読んでも、子供を産んだことがない女性が読んでも、心を揺さぶられる何かを用意できれば小説になると思う。」

 ▼池上氏の講評  

「私小説家の佐伯一麦さんが『エッセイとは手触りだよ』と言われたことがあるが、今回の作品にはその手触りがある。このような具体的な体験話はそれだけで強い。それをいかに生かすかが問題。あとは大嶋さんがおっしゃったような『心を揺さぶられる何か』をどうするかだけだと思う。ただ、重いテーマを淡々と書いていくスタイルはいいと思う。」

▼村山氏の講評  

 「あとのふたつの作品にも言えることだが、今回、提出された作品の問題点は、情報を明かす順番と思う。時間軸が行ったり来たりすると、読者は今現在の時点で戸惑ってしまう。説明の順番、情報開示の順番を自分のなかで整理して、「書かなくていいことは書かない、書くべきことだけを書く」というように整理したほうがいいように思う。
 父の死に直面したときの主人公の心情だが、このようなディテールをもっと書いてほしい。それを書くことによって、父親との距離感がわかる。しかし、それはすべてを説明するということではなく、すべてを説明せずに一部を切り取ることで、全体に光を当ててみせることが大事。それが上手に出来ると、一気に小説らしくなると思う。
 答えを説明してしまうと、読者はそれ以上のことを考えてくれなくなってしまう。余韻が残らないという損なことがおこる。このエッセイを小説にするのであれば、場面を説明するのではなく、自分の心情によりそって描写してほしい。 」


■『台風一過』(林 香里)

・著者の概要より――


チューブを曲げする方法

 佐藤妙子38歳。バツ2で小4になる満を育てている。
 満が物心つかない頃に1度目の離婚をしたあと、満が保育園の頃に2度目の夫と再婚。当初は上手くいっていた家族関係も、妙子の実母の心無い言葉により、2番目の夫は追い詰められ、精神的に病んでいってしまう。
 バツ2になる離婚をすると同時に、生まれ育った北海道から沖縄へ逃げるように移住する。南国で開放的だろうと思っていた沖縄の生活も期待したほどではなく、妙子も満も馴染もうとするも馴染めず、反対に嫌気が差してきていた。
 あるとき満が「沖縄から出たい」とポツリと告白したのが決定的となり、妙子は沖縄にこだわらず、ネットで結婚相手を探し始める。
 9月の連休に、ネットで知り合った相手と見合いをすることになり、東京行きの飛行機に乗る。だが、会った相手は、とても不潔で、臭かった。妙子も満も閉口して、この話をなしにしようとする。

 
▼ゲストの講評

○伊礼氏
 
「この作品を読み終えたときに、誰のどんな物語なのか、わかりやすく言葉にできなかった。それは、この作品が主人公をどうしたいのかわからないまま書かれているからだと思う。それが作品に表れてしまっている。
  "シングルマザーが子供を抱えながら相手をパワフルに探し出す"という物語かと思いきや、過去の部分に戻っていったりする。「ネットを挟んで知り合った男性と友情や嫉妬という感情を挟みながら、最後はお互いを励ます間柄になるのかな」と思いきや、そうでもなくあっさり終わっている。
 小説を書くうえで自分を好きじゃない人を書くのは大切なことだが、その人がどういうことを考えて行動をするのか、ということを踏まえて自分のなかに取り込んでいかないと、人間が描けていけないと思う。次回はそこを考えて書きはじめるといいと思う。」
 

  ○大嶋氏
 
「編集魂が刺激された。作品として全然なっていない(笑)。その理由のひとつは情報の出し入れの順番がうまくいっていないことにある。この話は面白いところが多く出てくるし、作者が話を展開させようとする気持ちが見える。しかし、それが絡まってしまっている。
 作品に出てくる相手が臭くてもいい。そこで妙子を黙らせるのではなく、相手にむかって「臭い」と言わせること。それによってはじめてそこに他者が生まれる。作品のなかで、主人公と対立する他者の存在は大事です。「臭い」といわれた男が反応することで、ふたりの関係が成り立ち、物語が立ってくる。話を転がすときは、様々なシチュエーションを想定して書く、というところからはじめたほうがいいように思う。」

 

 ▼池上氏の講評 

 「これは単純に「臭い」と思われた男性がかわいそうです(笑)。林さんは、男に愛がないなあ(笑)。臭かったら、臭いといってあげましょうね。いわれた瞬間はへこみますが、次回からは気をつけるようになり、そこから臭いの先の人間関係がスタートするわけです。
 物語において、主人公には他者との出会いが必要です。主人公と対峙し、脅かし、たえず不安にさせる存在としての他者。その他者との関係を描くのが、物語であり、ドラマであり、エンターテインメントでしょう。
 ヒロインは歯切れがよくて、なかなか調子がよくて楽しいキャラクターですが、その主人公がもっとじたばたする場面や、深い考えを持っているところがあればよかったですね。調子がいいだけで終わっているので深みがない。もう少し別なキャラクターの要素を作ったほうがいい。」

(左・写真)文芸評論家・池上冬樹氏

 

▼村山氏の講評 

  「技巧的なことをひとつ。一人称と三人称が交じっている。これは自分なら一人称で書きますね。この作品の持ち味として、テンポの良さがある。このテンポの良さを引き出すには、一人称のほうがいいように思う。
 あと文中の言葉遣いで、普段使う言葉が出てくることも、一人称を勧める理由のひとつ。普段使いの言葉は一人称だったら見逃せるが、三人称になると雑だという印象になり、見逃せなくなる。
 一番言いたいのは、さきほど作者の方が「説明足らずだった」とおっしゃったが、それは声を大にして「NO」と言いたい。逆に説明しすぎている。作品のなかに回想の形が出てくるが、回想の形で書くと描写ではなく説明になってしまう。説明と描写は違う。
 そして、これが大事なことなのだが、必要のない説明は書きたくても書かないこと。黙ることです。どれだけ黙れるかということが、小説にはものすごく大事である。常に自分の脳が、書いている自分より上に浮かんでいる感じで、俯瞰してほしい。いま、自分が書いている文章は本当に必要なのか、いま教えようとしている情報は教える必要があるか、ということを考えてほしい。そこを考えると、この作品には書く必要がない場面がたくさんある。
 読者がまるでその場にいるかのような、あたかも錯覚を与えるかのような描写をすることによって、感情移入させることができる。説明では感情移入はできない。読者は、描写の順序を間違えても感情移入できない。いま語っている主人公のいまが、どういう物事のうえにあるのか、ということが先に読者に明かされていないと、読者は困ってしまう。描写の順番を整理して明かしていただきたい。」


■『エレベータ。』(橋本美香作)


・著者の概要より――

 七月二十三日水曜日の早朝、青山俊介はコンビニの深夜勤務を終えて外に出た。九年前の七月二十三日の朝に戻りたいと俊介は思う。
 アパートの部屋には、低肺機能で酸素吸入が必要な加奈子が待っている。俊介が止めるのもきかずに加奈子はタバコを吸う。ふたりの部屋は三階にある。階段を昇ることがしんどい加奈子は、エレベータのある場所へ引っ越したいというのが口癖だ。
 加奈子の離婚した元夫の菅嶋から、毎月加奈子へ送金がある。金が着いたと、加奈子が菅嶋に電話するたび、俊介は彼に強く嫉妬する。
 加奈子は時々、洋服ダンスに入るという奇異な行動をとる。加奈子は、俊介が憎いという。酸素ボンベに火をつけて一緒に死のうと誘う。
 俊介は九年前、加奈子の娘、繭子の担任教員だった。繭子は八歳という若さで授業中に事故死した。責任の一端は俊介にあった……。

 
 ▼ゲストの講評


どのように私は、アルミニウム筐体のスチールボルトを削除しますか

○伊礼氏
 
「主人公と相手の男性が夜の散歩をするシーンがあるが、そこはとてもいいと思う。夜の街の雰囲気やアイスが入っているレジ袋の感じまで想像できてよかった。
 しかし、物語が終わっていない。今回の20枚の中では、主人公の娘が死んだシーンがクライマックスになっているが、本当のクライマックスは別にあると思う。エピソードの出し方の順番も、これが一番効果的だとは思えなかった。娘が死んだあたりからの書き込みをもっとして、順番を整理したほうがいいように思った。」

 
 ○大嶋氏
 
「この作品は、まだなにもはじまっていないように思えた。作品のなかにひとつの重いことがあって、そこからある種のカタストロフ、人間関係の崩壊、重い出来事に対する新しい事実などが出てくるが、それはプロローグ的なもにとどまっている。
 とても重い状況を書いているのだが、読者が書き手と同じ重さを感じているかというと、そうとは思えない。読み手はもっと小さいものを受け取ってしまっている。それでは短篇としては成立しづらい。じゃあ、どうしたら小説にもっていけるのか。この作品のラストの場面からもっと突き詰めて、「このふたりはこの先、どんな場所に立ってしまうのか」という想像を丹念に積み上げていくと、小説になると思う。」

 
▼池上氏の講評  

 「純文学にするかエンターテインメントにするかで、書き方が違ってくると思う。エンタメならば、娘が死んだ経緯を書いたり秘密を提示したりしながら意外性を持たせるべきだと思う。ただ、僕が思うに、この作品はもっと文章を練りあげていって、純文学にしたほうがいいと思う。
 この作品は加害者と被害者の愛憎劇です。なぜ加害者と被害者が一緒に生活をしているのか、一緒に生活をしなくてはいけない"地獄"とはなになのか、そしてそれをどう描くか。そういった戦略がない。
 場面を部屋に限定して、セックスだけを描けばいいと思う。その一緒にいなくてはいけない"業"を、性愛と憎悪と祈りのようものをまぜて描けばいいと思う。そのほうが、この作者の個性が出るように思う。」

 
▼村山氏の講評  

 「橋本さんの作品は前にも一度講評したが(※08年2月、仙台文学館での「小説家・ライター講座」で)、そのときの作品の性描写に、とても惹かれるものがあった。だから、ついつい性描写を期待したのだが、少なかった。もっと書き込んでほしかった。
 先ほどからみなさんがおっしゃっている「どうして二人が一緒にいるのか」という理由の部分も、説明ではなく描写で提示してほしかった。理屈ではない描写を重ねていくことが、この作者の技術力ならできると思う。
 あと技術的な問題として、主人公の名前を出しすぎである。さりげない名前でもあまりに多く書きすぎると、作品の全体像を曇らせる要因になってしまう。もっと文章を刈り込んで、自分の文章に対して意識的になったほうがいいと思う。
 今回のテキストのなかで描写力は一番あると思うし、書きなれてもいるけれども、その手なれている分だけどこかで見たものになってしまっている。どこかで見た感じというものは、とても損である。純文っぽい匂いというものを半端に混ぜてしまうと全体がもたついてしまう。この作者はそういうところに頼らなくてもいいように思う。 
 

  今回4作品読ませていただいたが、どれも書きたいという気持ちが前に出ていて、とてもよかった。作品を書いていくうえで一番大切なのは、「書きたい」というモチベーション。その気持ちを大切にしながら、書き続けていただきたい。」

 (右・写真) 講座の受講生のテキストを真剣に読み込む。

 


■村山由佳インタビュー/村山流小説技法・小説を書くうえでの覚悟

  テキストの講評のあと、村山さんの創作術や文学観など、いろいろなお話をお聞きした。(聞き手 池上冬樹氏)

  ―― 村山由佳といえば恋愛小説と思う読者が多いと思いますが、恋愛小説を書く魅力はなんだと思いますか?

  村山 日常生活のなかで、感情の針がレッドゾーンまで振り切れることというのは、恐怖か、怒りか、恋愛くらいだと思うんですね。そのなかで自分が書きたいと思うのが、恋愛なんです。ホラーよりは、恋愛のほうが書きがいがありますね(笑)。

  ―― 作品のアイデアはどこから得ますか?

 村山 自分の体験も大きいですよね。でもそれは数ではなく、どれだけ自分で分析するかということなので、ひとつの恋愛から10の恋愛小説を生むことは可能です。それは、自分に対して意地が悪くなるくらい分析していく、ということでしょうかね。

  ―― 読み終えた後に、悲劇を求める読者もいれば、ハッピーエンドを求める読者もいる。そのあたりの兼ね合いはどう考えていますか?

  村山 結局、自分を貫くしかないと思いますね。どれだけ普遍性を持たせるかということと相反するようでいながら、ひたすら人におもねているだけでは、自分の作品は書けない。自分にしか書けない小説を模索しながら、どういうところで読者と繋がれるかということは、かなり意図的に考えていますね。

  ―― ストーリーを中心に考えますか? それともキャラクターを中心に考えますか?

 村山 キャラクターですね。ストーリーのためにキャラクターを動かすととても貧しい小説になってしまうので、まずキャラクターを突き詰めて考えます。この人は、どういう場面で、どういう行動を取るかということを、全体を見渡して、矛盾のないように考えぬいてから書きます。

  ―― 村山さんの作品は音の描写が素敵ですが、その感覚の訓練はどうされていますか?


  村山 普段から算数のドリルのように「これをどう描写する?」ってゲームみたいにしていますね。耳に入ってきた音楽、目に飛び込んできた色、光、匂い、手触り、人に対する印象、仕草の描写、そのようなものをひとつひとつどのように上手く描写できるか、しかも上手さが鼻につかないように描写できるか、というあたりをすごく計算して書いています。でも、それは慣れであり訓練だなあ、と自分でも思うので、みなさんも意図的にそれをしてみたらいいと思いますね。自分なりに、過不足のない描写というものを普段からしてみるといいと思います。

  ―― どんな作家にも個性が必要です。自分の作家としての個性を、どう捉えていますか?

 村山 苦労しなくても普遍性を得られるところかな。いままで書いてきたものが、書きたいことを書いて読者の共感を呼べるようなものだったことは、物書きとして、とても幸運だったと思います。

  ―― 恋愛小説を書くうえで、必要なこととはなんでしょう。

  村山 読者にどれだけ感情移入をさせるかということだと思います。それがたとえ、とてつもなく外れた恋愛だったとしても、読者に感情移入させなければいけない。「こんな恋愛を自分はしたことがない」と思う人にも、無理のないように書かなければいけない。そのためには普段から、自分の感情や見ている情景をどう言葉にするのか、自問自答しているような気がしますね。

 

 ふとした拍子に可愛らしい笑顔を見せる。

 

―― 今日の講義で、エッセイと小説の違い、という話も出ましたが、村山さんがエッセイを書くときに気をつけていることはありますか?

  村山 エッセイはとても難しいですね。小説より簡単に書けるようで難しい。その理由は端的に言っちゃうと、「誰もあなたに興味がない」というところからはじめなければいけないから。
 小説は作り事であると誰でも知っているし、エンターテインメントであることが多いから、人を臆面もなく楽しませることが出来る。しかし、エッセイは基本的に、読者はその人自身の話だと思って読む。その人に興味がない場合、よほどの手管を使わないと、エッセイを読ませるのは至難の業。これは、自分自身も常々留意しているところなんですね。
 おかげさまで、自分の書いてきた小説をもとに自分自身に、あるいは自分のライフスタイルに興味を持ってくれる人がいくらかは出てきてくれたかな、と思うので、エッセイを書くときも、だんだん構えなくて済むようになってきましたけど、それでもやはり「私のことを本当に知りたいの? 面白いの?」と考えますね。そこをかなり自分自身、シビアに捉えないと、エッセイはとても難しいと思う。

 ―― 09年1月上旬に文藝春秋から新作『W/F ダブル・ファンタジー』が上梓されます(『W/F ダブル・ファンタジー』ついては、こちらのスペシャルインタビューもあわせてどうぞ!)。この作品には冒頭から結末までセックスが多いです。濃厚な性描写があふれている。恋愛小説に性描写は必要不可欠だと思いますが、どのように描くのか、どこまで描くのか、という自分のなかの基準はありますか?

  村山 悩みましたね。特に今回の『W/F ダブル・ファンタジー』に関しては、出だしから最後までエッチが出てくるんですね。身もふたもない言い方をすると、みんなすること一緒じゃないですか。それを「そういうことをするときの心情によるのか」、それとも「相手によるのか」、「どういうふうに一辺倒にならずに書いていくのか」、「どうやって、そのときに必然性のある描写をきちんとしていくか」ということはものすごく考えました。
 

以前、池上さんと朝日新聞の担当記者と3人でご飯を食べた時に、性の書き方が話題になりましたね。「どこまで書いたら女の性をきちんと書いたことになるのか、どこから先が露悪になるのか」という問題でした。その擦りあわせというか境界性が、いつも悩むところなんですよ。でも、その話をしたら池上さんが、「村山さんの文章は凛としてたっているから、どんなことを書いても汚くならないよ」って言ってくださって(笑)。それが自分にとって、とても励みになると同時に、文章が立っているということがどれだけ大事なことなのか、というのを見直すきっかけになりました。

 (左・写真)新作『W/Fダブル・ファンタジー』
(文藝春秋 2009年1月10日発売 定価¥1780・税込

  ―― 最後に、作家になるために必要なことはなんでしょうか。


  村山 「誰もあなたのことを知りたいと思っていない」ということを大前提に書くことかな。そのうえで何を語るかだと思います。
 私はいい人に見られたいんです。八方美人で誰からも好かれたい。でも、素の自分は、いろいろなものを抱えて生きているわけです。それをどれだけ文章のなかに表していくのかと考えていくと、やはりエッセイは本当のことであり、同時に本当のことではないんですよね。でも、それは書かれた文章すべてに言えることだと思います。
 感情を100%拾える言葉はこの世にないんですよ。私は物事を文章にあらわしながら、たった6色しかない色鉛筆で極彩色の絵を書かされているような気がします。あるいはものすごく網目の大きい網で、小魚をすくえといわれているような気がする。それくらい言葉というのは、とても不自由なものなんですよ。それを前提に言葉を置いていって、物事を人に伝えた気になる。そして、読む側も自分の理解できる範囲内で、それを読み解いて理解した気になる。でも、すでにそこに大きな齟齬が生まれているわけですね。そういう意味も含めて、書かれたものはすべて虚構なんですよ。
 でも、エッセイのような、まるで本当のことが書かれているかのようなものに虚構がある反面、自分にとっては『W/F ダブル・ファンタジー』のように、意図しないところで自分がボロボロ出てしまう部分もある。それが小説の怖さであり、醍醐味でもあるんですね。
 だから私にとってものを書く、プロとして書いていくということは、「当事者でない部分に自分を置いていくことをすっぱり諦めろ」ということだと思います。常に自分が意図的に当事者になって、覚悟を引き受けなければいけないことなんだなと思います。

 

 楽しそうな村山さん。会場にも笑いがたえない。

  text by K


 【今回の講師プロフィール】

 ◆村山 由佳(むらやま・ゆか)

1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒業。会社勤務、塾講師などを経て、93年『天使の卵~エンジェルス・エッグ』で第6回小説すばる新人賞を受賞(※この作品はミリオンセラーを記録し、映画化もされた)。『BAD KIDS』『翼~cry for themoon』『海を抱く BAD KIDSⅡ』などの秀作のあと、2003年7月『星々の舟』で第129回直木賞を受賞。著書はほかに『すべての雲は銀の…』、『永遠。』、人気シリーズ『おいしいコーヒーのいれ方』などがある。
 



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